JOY KOGAWA
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<書評>ジョイ・コガワ著「Gently to Nagasaki」
失われたナガサキを求めて

By 田中裕介

 「怒りの広島、祈りの長崎」という表現がある。原爆に対する被爆者たちの中にある2つの異なった姿勢を端的に物語っている。「怒りの広島」は誰もが共有し得るだろう。一方、「祈りの長崎」はどこかピンとこなかったが、ジョイ・コガワの新著「Gently to Nagasaki」を読み終わった時、すんなりと了解した。「怒り」のaggressiveな姿勢に対して、「祈り」が passiveだということではない。このホロコーストは、神の定めであり摂理だったという解釈に立っている。ジョイのいう「ナガサキのスピリットは、南京と繋がっている」という意味も同様だと思う。「祈りの長崎」を、ジョイの持つキリスト教の精神にくぐらせると 「赦し」という言葉になって鮮明に現れてきた。これを再度、「社会正義」という普遍的な共通言語にくぐらせると、「和解」への道筋が見えてくるかもしれないと思う。何故なら、「赦し」は「つぐない」と「癒し」という一方的ではない双方向の受諾を伴うからだ 。
 ジョイの新著「Gently to Nagasaki」は、「Obasan」 (1981)から今日までの彼女の心の旅を43章に分けて、ほぼ時系列に 記録したドキュメンタリーである。心の襞までめくり上げてプライバシーを披瀝しているという意味では、 いわゆる私小説である。これまでの彼女の主な作品3作「Obasan」(1981)、「Itsuka」(1992)(注:2005年、「Emily Kato」に改訂改題)、「Rain Ascend 」(1995)を読んだ人ならば、実名こそ出していないがどれも作家を含めて実在の人物をモデルとして、実際に起きたことに基づいて書かれていることが分る。最新作はその後の20年を記した続編であり、完結編であり、作家としての集大成とも言えるだろう。ジョイはこれまで何度も「everything is connected」と語ってきたが、 この著書で過去の全てが彼女の中で一連なりになっていることを証明してくれた。
 ジョイの6冊の詩集から「Woodtick」などかつて何篇か和訳したが、どれも自体験を忠実に反映したものである。「私はキリスト教ファンダメンタリストである」と自己規定するジョイは、物語を創り上げる語り部ではない。聖書と自体験の乖離を埋めるべく告白を書き連ねた日記を、神と読者に捧げてきた敬虔な信徒なのだと思う。「Obasan」から「 Itsuka」を経て成人する主人公ナオミは、日系カナダ人社会という羊の群れの中で成長し、そこから逸脱することを一番恐れ怯えている。逆にいうと、日本人とカナダ人の間で自我が揺れ続けているのである。それはジョイの宿命であり、内なる戦いでもあるようだ。

●ナガサキに優しく
 第一作「Obasan」は、第二次大戦直前に日本に一時帰国した母の失踪で終る。「母親がどこへ消えたかを読者は知る必要がある」と出版社から提案された時、ジョイは「8月9日」という歴史的事象を思い浮かべたという。ジョイにとってナガサキは日本でのキリスト教の発祥の地であり聖地である。「Gently to Nagasaki」というタイトルは、執筆を始める前から心に決めていた。
 確かに、ナガサキは江戸時代を通じて世界に開かれた日本の表門だった。同時に、「邪宗」として禁じられたキリスト教の信者をかくまってきた慈悲深い里でもある。ジョイは「聖母マリア像は東洋人の顔をまとい、仏教でいう観音像、つまり慈悲の女神となって支配者の目を逃れてきた」と記している。明治時代になって異教禁制が解かれ、1914年、浦上天主堂が日本でのキリスト教の本拠地として誕生した。そして1945年、ナガサキの隠れキリシタンの末裔たちは、西洋文明がつくりあげた原子爆弾の犠牲となって殉死した。
 だが、被爆者であり、カトリック教徒であり放射能専門医師の永井隆の著作「長崎の鐘」にジョイが出会った時、キリスト教という宗教も、核という科学も、ジョイの想念の中では決して譲れない西洋文明が生み出した「叡智」の結晶となった。永井隆は、戦時中に既に過度のレントゲン撮影被爆のために余命3年を言い渡されていた身だった上に、原爆投下による被爆症を併発していた。そして、 1951年、人類が核を平和利用する日の到来を信じつつ逝った。永井は、死の床にあっても、被爆が人体に与える影響を我が身を献体して観察し、科学の発展に寄与できることを神に感謝していたのである。
 何故、ジョイは「譲れない」のか。日本の侵略戦争の犠牲者でありながら、祖国カナダから敵国人であると「石をもて追わるるごとく」(新保満)に迫害された日系カナダ人として、永井隆のいう「神の摂理」に、心の芯まで共鳴したからだと思う。
 1937年、永井が中国で軍医として加わった日中戦争中に、日本はキリスト教伝道師ミニー・バートリンが教務主任を務めていた南京の金陵女学院の女子学生たちを含む多くの中国人を虐殺した。世界で2度目の原爆投下の犠牲となったのは、永井隆が書き残したように「日本人はあまりに人命を粗末に扱った」行為に対する「当然の報い」だったからだ。ジョイの心の中では、ナガサキと南京の犠牲者は霊的に繋がっている。言い換えると、永井隆に出会った時、ジョイにとって「ナガサキ」は原罪の地となり、父母から受け継いだ自分の血の中に宿命となって括り付けられた。
 1988年、 日系カナダ人は祖国カナダ政府の謝罪を受入れ、その罪を赦した。ジョイはここで「赦し」と「癒し」と「和解」を経験したのである。リドレス合意に至るまでの紆余曲折の中で、ジョイの書いた「Obasan」がカナダ主流社会に与えた影響力は測り知れない。

●あふれる情けと癒しの女神
 一方、ジョイの目には、「ナガサキ」の霊も南京の霊もいまだに赦しを求めて彷徨っている。1991年、父・中山吾一牧師の付き添いとして日本を旅した時、その赦しを与えてくれるのは、唯一「あふれる情けと赦しの女神 (Goddess of Abundance and Mercy)」であるという想念にたどり着いた。こうして、マリア像と観音像は、ジョイの中で合体した。
 そして、ジョイ自身も赦しと癒しが必要だった。愛する父・中山牧師の「ジキルとハイド」の過去の罪、信者の少年たちに対する性的虐待の事実が噴出し出したのである。
 1992年 、ジョイは父の中山吾一牧師を伴ってバンクーバーで開催された日系人のホームカミング会議開会式の壇上に立った。後に、ジョイは「とても気が重かった」と僕に語っている。ここで起きるかもしれない最悪の事態を覚悟していたのだ。そして、沈黙していた石の叫びが始まった。日系社会はジョイとその家族に石をぶつけ続けたのである。ジョイの新著には、痛みに耐えながらも、語ろうとしない相手との対話と、 赦しと癒しを求め彷徨い続ける羊の姿が、渾身の力を込めて描かれてある。その先にあるはずの和解を夢見ているのだ。
 「Obasan」の冒頭はこう始まる。「語ることのできない沈黙がそこにある/語ろうとしない沈黙がそこにある…」(田中訳)


Photo:
1) “Gently to Nagasaki” (Caitlin Press)

2) 10月28日、トロント大学での出版記念会で話すジョイ・コガワ
(photo: Yusuke Tanaka)


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